さよならの空は
あの青い花の輝きとよく似ていた
試し読み

001

潮野の海はいつだって、絞りたての空をそのまま溶かし込んだような色をしている。

そのまっすぐな青さは時にまぶしく、時に怠惰で、時に、ほんの少し胸を軋ませる。

卒業式を終えると、私は自然とこの海辺に足を運んでいた。私たちはいつも砂浜に腰を下ろし、夜な夜なふたりだけのおしゃべりを交わした。

波打ち際より少し手前のあたりで立ち止まる。水平線のほうに目をやると、春の白い光が額にとっぷりと注がれた。制服の内側で、青い飾りのついたペンダントが日差しに反射してきらりと光る。

その輝きを胸に感じながら、私はスクールバッグも卒業証書も放り投げ、そっと座り込んだ。そしてもう一度空を仰ぐ。三月の空は高く、鮮やかな群青が広がっている。

彩度の高い青の中、まるでソーダの炭酸みたいに、様々な景色がつぎつぎ浮かび上がっては光って弾け、空の彼方に消えていく。

高校三年生のあの日、君と出会った。

それから彼らと共に過ごした毎日は、この先の未来、私の中で永遠の色彩で輝き続けるのだろう。

初めて君の肌の匂いに触れた、あの夏。

思い出される記憶のすべてが甘く懐かしく香り立ち、鼓動は静かに脈打ちはじめる。

その、寂しさにも似た想いに包まれながら、私はすうっと息を吸い、潮風に歌を灯した。

002

五月。背負ったギターケースの重みが、背筋をじっとりと汗ばませていた。夜風がねっとりと髪を撫でる。私は、まだ慣れない海沿いの道をひとり歩き、浜へと向かっていた。「転勤の話があるとけどな。隣県に異動で、もし決定になれば引っ越しも視野に入れとるんやけど、心音はどう思う? 学校の都合もあるやろ」

そう父に問われ、「いいよ」と私は軽い調子で返した。もとの学校を離れることに、私はなんの未練も思い入れもなかった。

初夏の蒸れた潮風の匂いを感じながら、私は考えていた。

学校で、まるで空気の中に透けていくみたいに、自分の存在をかき消すようになったのは、いつからだっただろう。

幼い頃から、人の顔色をよく読もうとする子供だった。この人は今どう思っているのだろう、これを言ったらどう思われるだろう、の繰り返し。なぜそうした性格が形成されていったのか、と幼少期の記憶を手繰り寄せていくと、それは、もしかすると私が生まれた直後の出来事に起因しているのかもしれない。

私は、生まれてからすぐに母を亡くしている。病気や事故でなく、お産における出血多量が原因だったらしい。それからは、ずっと父とふたりで暮らしてきた。母がいない、ということは幼い私を心細くさせることもあった。けれど母のことで寂しいと泣いたり、わがままを言って周囲の人に手を焼かせるようなことは決してしなかった。いや、しないように決めていた。

母のぶんの愛情をも補うように、私を守り育ててくれていた父に困った顔などさせたくなかったから。

私が小学校低学年くらいまでは、遠方からよく祖父母が世話をしに来てくれていた。新幹線で片道3時間の距離を行き来してくれていた祖父母。そんな優しいおじいちゃんとおばあちゃんに会えることを素直に嬉しく思う反面、幼稚園児ながら、「わざわざ遠くから申し訳ないな」という気持ちも、心の裏側にじんわり滲んでいたことをよく覚えている。

祖父母に対し、基本的には無邪気な気持ちで遊んでもらいながらも、例えば用意してくれるおやつのルーティーンに苦手な最中が入っていてもにこにこしながら頬張り、夕方のアニメを観たくても、祖父母が食い入るように見つめ熱心に語りかけてくる大相撲のテレビ中継を、あくびを噛み殺しながら眺め、父の帰りを待った。

思い返すと、子供らしい可愛げというものに欠けたやつだったなと少し苦い気持ちにもなる。けれどあの頃の私はこわいくらい、〝人にどう思われているか〟を気にしていた。ちょっとしたおねだりをしてみることすら勇気が必要だった。周りの親切な大人に助けられて暮らしている自覚があったぶん、そのような人たちに、〝面倒な子〟と思われるのがこわかった。そういったラベルが貼られた途端、ひとりぼっちになる気がして、こわかった。

003

そんな内省的な面が強かったため、こと友達づくりには困難を極めた。

誰かに心を開くということは、自分の心を見せるということ。ほんとうの気持ちを伝えること。それが、うまくできなかった。「これを言ったらどう受け取られるか」「誤解なく正しく伝えなきゃいけない」そんなことばかり考えていたからだろう。「あ、えっと、ううん……」

言葉を返そうとするたびに、私はいつも全身に緊張を走らせた。ぎゅっと縮こまった心臓は、口からこぼす言葉をひどくつっかえさせた。だから余計何も言えなくなった。そして私はたいてい否定も肯定もなく、ただ曖昧に頷くことしかできなくなっていった。

言葉の詰まりが顕著に目立ちはじめたのは、小学校に上がったあたりだったように思う。新しく出会う人が増え、頑張って関わろうとするほど言葉が喉でつかえ、怪訝な顔をされた。そして伝えたい思いは喉より上へあがっていかなくなった。相手の眉間のしわが深くなるのを目の当たりにするたびにこわくなった。幻滅されたくないのに、嫌われたくないのに、そう考えれば考えるほど心臓は嫌な音を立てはじめ、呼吸は浅くなった。私がまともに話せるのは、父だけだった。

頑張ろうとするから、こわいのだ。

ある時、ふとそんな風に思った。その瞬間、胸の隅にぶら下がっていた重苦しいものが、ふわりと宙に浮き上がり、ぱーんと弾けた気がした。

それ以来、友達づくりに関しては早々に撤退するようになった。うまく人付き合いをしようとするから心がぐうっと痛くなり、言葉もつっかえてしまう。くぐもった声では言いたいこともうまく伝えられない。

だったら、ただひとりでいるほうがいい。

人とのコミュニケーションを避けるのは何かを怠けることではない。これは自分の秩序を守るための正しいライフハックだ。そうすれば解釈のすれ違いも起こらないし、気持ちだってすり減らない。

海に沿うように等間隔に植えられている木々を辿りながら、そんなことをぼうっと思い返す。気づけば住宅地を抜け、海辺のそばまで歩いていた。防波堤の階段を下り、白い砂浜にスニーカーで着地する。ちょうど肩のあたりで切り揃えられた髪が、びゅうっと風にさらわれる。浜には今日も私以外誰もいない。〝ひとり〟を極めたからといって、とくにいじめを受けるなどということもなく、私はただの大人しい生徒として透けるように存在していた。

ここ潮野町に引っ越して来て、新しい高校に編入してから一ヶ月ほどが経つ。私の存在感は引き続き透明なままだった。けれどそれが自分にとって当然だったため、私はどこか安息するような思いでひとりの時間に埋もれていった。〝孤立〟を憂鬱に感じなかったのは、家族の存在が大きかったのだと思う。

004

ふたりきりで暮らしてきた父との信頼関係は何よりも深かった。炊事・掃除をはじめとする家のことはずっとふたりで協力しあい、また映画好きである父の部屋には大量のDVDが並んでいて、「今日はなん観るか?」と語りかける父と一緒に、棚からあふれている映画を吟味する時間がたまらなく愛おしかった。父は決して私を〝孤独〟にはさせなかった。

それに私には、母が残してくれた音楽があった。

砂浜に腰を下ろし、ケースからアコースティックギターを取り出す。母がこの世界に残していったもののひとつであるこのギターは、物心ついたころから私が受け継ぐようになった。

波がぎりぎり届かない場所にあぐらをかき、ギターを抱えこむ。スニーカーの先っぽで、色とりどりの小さな貝殻たちが波に打たれ、しゃらしゃらと揺れている。

すうっと夜の空気を吸い込む。潮の匂いに鼻腔をくすぐられながら、私はそっと弦をつま弾き、海に向かって歌を紡いだ。『やさしさに包まれたなら』。母が好きだった曲。私もずっと大好きな曲。

歌は不思議だ。まるで私のために書かれたんじゃないかと思いたくなるほどに、歌は時折、その時自分が欲しい言葉をぴったりくれたりする。そんな音楽に何度も励まされながら、音楽とともに育ってきた。

私は聴くことと同じくらい、歌うこともまた大好きだった。歌詞は、自分自身のうまく言葉にできない想いを代弁してくれる。それを自分の声を伴い体の外に放つことで、心の泉に沈むしかなかったどうしようもない感情を、歌がすくいあげてくれる気がした。歌っている時は、決して言葉はつっかえない。

それに、母が愛していた曲を自分が歌うことは、向こう側にいる母のことを想うことでもあった。

私は母のことを何も知らない。知らないぶん、この世界に残る母の面影に触れるたびに切なくなったりとか、そういった類の寂しさを感じることはなかった。けれど、母がいないことによるぽっかりとした物悲しさはもちろんあって、そういう時、彼女がどんな人物であったのだろうと想いを馳せることで、心に滲むひえびえしたものを拭ってきたように思う。そんな私に、父はよく母のことを語り聞かせてくれた。

大学生時代のふたりが写った写真からはじまるフォトアルバムや、私がお腹の中にいた頃に母がつけていた日記、私に聴かせてくれていたCDなど、父は母の想いが宿るものをすべて私に共有してくれた。

母のお気に入りだったという音楽は、幼い頃から何度も聴いてきた。ユーミンやブルーハーツ、洋楽だとザ・ローリング・ストーンズやボブ・ディランなど、ポップス、フォーク、ロックまで様々だ。私がお腹の中にいた時も母はよく自分の好きな音楽を流し、口ずさんでいたという。

胎児の頃のぬくもりや、懐かしさを思い出す、とかそんな感性はまったく持ち合わせていないけど、そういった音楽は、私の心をたちまち魅了した。最初こそ何気なく口ずさんでいたものの、だんだん、母が愛した曲を歌うことで、母が遠い空の向こうからいつだって私を見つけてくれるような気がしてくるのだった。そんな気持ちを発見してからは、歌っていると稀に、まぶたから勝手に水があふれてくることがあった。寂しいとも嬉しいとも悲しいとも楽しいと0 11も違う、ひとつの言葉じゃ表現しきれない静かな涙。

そんなことに想いを巡らせながら歌っていた『やさしさに包まれたなら』が、最後のフレーズに差しかかろうとしていた時だった。

じゃり、と砂を蹴る音がした。「は、めちゃくちゃいいやん」

背後から声がして、私はきゅうりを見つけた猫のように驚き、反射的に振り返った。暗がりの海辺は、私を見下ろす男の人の顔を翳らせていて、ぱっと見ただけではどんな表情をしているのか判別できなかった。

けれど、彼の純度の高い黒い瞳と、かちりと目が合ったことは、はっきりと分かった。

途端、体じゅうの熱がすべて顔に駆け上り、一気に顔面が火照った。うそ、いつから聴かれていたんだろう……。「あのさ」「……へぇっ」「俺と、歌ってくれんか!」

彼が勢いよく腰を落とし、私たちの目線の高さが等しくなった。彼の顔がちょうど月明かりに照らされた。にぃっという音まで聞こえてきそうな笑い顔が、暗闇の中にぺかりと浮かび上がっていた。「……ひ、いや……」

005

私は何が起こっているのか理解できないまま、じりじりと後ずさりをした。皮膚が緊張していてうまく体を動かせない。「さっきの歌さ」などと言い、彼が砂にめり込む私の手首をぐっと掴む。「え、あ、……はっ」

私は調理中の油がはねた時みたいに、彼の手を勢いよく払った。「ちょっと、あの、はい」

私は必死に口を動かし何かしらの言葉を絞り出すと、ばっとギターを掴み猛ダッシュでその場から逃げ出していた。

これが、君との出会いのはじまり。

翌日。おそるおそる教室に入り、そそくさと自分の席についた。

あたりを見回す。

いない。

私は張り詰めていた緊張をほどき、ふぅと深めの息を吐いた。スクールバッグから教科書を取りながら、同時に昨晩の珍事を記憶から取り出す。一応クラスメイトの顔ぶれは把握しているつもりだけど、昨夜の私はかなりテンパっていたので、実は彼がクラスメイトだったのではないかという可能性も危惧していた。

けれど、どうもそうではない様子。昨晩の、白いTシャツにジーンズをまとった彼の姿が目の裏に浮かぶ。そもそも、彼が同じ高校の生徒なのかも分からない。

006

ともすると高校生でもないのかもしれない。とにかく、正体不明な人だったことだけはたしかだ。まぁ正体を知るより先に、まるでドッペルゲンガーに出会ったかの如く、必死に逃げ去ったのだけど……。

しかしその放課後、私はふたたび彼と遭遇することになる。「お、見つけた! 昨日は急にごめんなぁ。見かけたことある顔や思っとったけど、ここのクラスやったか」

帰りのホームルームを終え、廊下に出た瞬間ふってきた彼の声。その朗らかな声色とは裏腹、私はまた背筋に冷たい焦りを走らせた。「な、頼みのあるとけど」

つけつけとした調子で語りかけてくる彼と目を合わせる前に、私は彼の横を足早にすり抜けた。この人、こわい……。鼓膜に転がり込もうとする彼の言葉を払い除け、ためらうことなくめちゃくちゃに足を動かしその場を去った。

この人、こわい……。といよいよ振り向かざるを得なくなったのは、校門を出て、10分ほど歩いた頃だった。彼は、先ほどのように唐突に話しかけてくるでもなく、私のおよそ一メートルほど後ろを、ただただ黙ってついてくるのだった。彼の姿が視界の隅に映るたび、心臓は凍えた手のひらみたいにぎゅっと縮こまる。こわい、さっきよりも、こっちのほうがこわい……。

目の前の横断歩道の信号が赤に変わった時、私はぐぐぐとこぶしに力を集めた。そして勇気をかき集めた体をくるりとぎこちなく翻し、ゆっくり口を開く。

「……あ、あの、」「え! 受けてくれる気になったか?!

やー、ボーカルが抜けたばっかでなあ。やけん、昨日は感動したわ」「いや、ち、ちがうよ」

こわい。彼は、本当に何を言っているのか。「あの、ず、ずっとついてこられるのは、その、こわい、です……」「ついてくるって言うたって、俺もこっちに用あるし」「……あっ、へぇ」

ボッと顔が発火した。なるほど、つけられているなどとは自意識過剰もいいところだ。羞恥心が喉を刺し、「そう」という無愛想な言葉がぽつりと足元にこぼれ落ちる。「なあ、向かいにコンビニあるやん」

彼は私の気まずさなどどこ吹く風といった様子で、俯いたままの私にそう言った。ここの赤信号は、困ったことに永遠のように待ち時間が長い。「次出てくるお客さん、女の人と男の人、どっちやと思う?」「……へ?」「んー、じゃあ早いもんがちな。俺は男の人やと思う。もし当たったら」「ちょ、ちょっと、何のはな、し……」「一緒に走って」

は、と顔を上げた時、ちょうど信号の色が鮮やかなブルーに変わった。

007

「おー、ラッキー」

コンビニの自動ドアが開き、缶ビールを手にしたおじさんが出てくる。途端、彼の火照った手のひらが、昨晩と同じように私の手首を奪った。そのまま彼のスピードに引っ張られ、私たちは勢いのまま歩道を駆け出した。「うわぁっ」

あまりの速さにつんのめりそうになる私を、彼がぐっと引き上げて振り返る。「今日、みんなで集まるけん!」

がはは、とやんちゃな顔で笑う彼に手首を掴まれたまま、気づけば、私は家とは逆の方角を走っていた。

彼がやっと立ち止まったのは、看板も軒先の装飾も取り払われた、空き店舗らしき建物の前に着いた時だった。彼に掴まれた手首が、熱い。「いつもここで練習しよるんよ」

はあ、はあ、と肩を上下させ酸素を欲する私に、彼が軽い口ぶりで言った。彼が嬉々として話を進めていく一方で、私は口の中で言葉を練り固めていた。もちろん、断るための言葉だ。『俺と、歌ってくれんか!』

昨日、彼は丸い瞳をビー玉みたいにきらめかせ、そう言い放った。

その答えを返すならば、迷わず「ノー」だ。「あらあ、今日も練習ね?」

シャッターの下りた建物を見るともなく見ていると、目尻にきゅっとしわを寄せて微笑むおばあちゃんが語りかけてきた。「おー、ばあちゃん。今日はミーティングだけの予定やったけど、ちょっと音出すかも」「はあい、よかよ。頑張り」

いらっしゃい、とおばあちゃんに優しく肩を叩かれる。その小さな手を払うことなどできず、私は笹舟が流されていくように、案内されるままふたりの後に続いていた。

建物の裏へ回ると、一軒家の玄関へと辿り着いた。「おじゃましますー。おっ、玄弥と村瀬の靴あるな」「あ、あの……っ」

さっさとスニーカーを脱ぎ家に上がろうとする彼に、私はようやく声を上げた。「歌うって……、わ、私には」「まあまあまあ。ここまで来たんやからさ、話だけでも聞いてほしい。俺、昨日の歌聴いて腰抜かしそうになったんよ。ほんとに良くて」

彼の透明な瞳は、夕暮れ前の気だるい光を溶かし込み、私をまっすぐ見つめる。

歌を褒めてもらえることは、ほんとうは、心が大きく膨れ上がりそのまま弾けてしまうほど、嬉しいことだった。

でも、私には無理なのだ。

それにはちゃんとした理由だってある。

ひとりでは自由に歌える。けれど、誰かの視線に晒された時、つまり人前で歌おうとすると、

008

私は笑えるくらいてんで声が出なくなるのだ。視線が細く鋭い針となって私の喉を刺し、全身を刺し、脳天までも刺してくる。目の前が真っ白になり、まったく身動きが取れなくなる。自分では声を発しているつもりでも、声にならない声が荒い呼吸と共に吐き出されるだけで、歌にならない。

それをはっきりと自覚したのは、中学生の頃、音楽の授業でのこと。音楽科目は筆記テストに加え、歌のテストがあった。課題曲を提示され、先生が弾くピアノに合わせて出席番号順で自動的に組まれたペアの子と歌唱する。

一ヶ月ほど前に課題曲は発表された。緊張しがちな性質は自覚していたし、歌は繊細だから、ひとりがミスをすればペアの子も巻き込んでしまうかもしれない。私は何度も何度も繰り返し練習し、万全の準備のもと本番に挑んだ。

テスト当日。自分の番がくると音楽室から別室に移動し、先生と生徒三人だけの空間でテストは行われた。衣擦れの音がよく響くしんとした空気が、緊張感をいっそう際立たせていた。

クールな女性の先生だった。「でははじめます」という無機質な声を合図に、先生が鍵盤に指を下ろし前奏を弾きはじめた。視線はしっかり私たち生徒に向けられていた。きゅっと喉の奥が狭くなるのを感じながらも、私は思い切りブレスをした。

唇からこぼれたのは、声の裏返った、震えた羊のような歌だった。

隣で歌う生徒が黒目だけを動かして私を見た。白い蛍光灯の下、視界が白く霞むような感覚を覚えながらも、「違う」「何度も練習したじゃないか」と、そう必死に自分に言い聞かせて声を張り上げようとした。しかし焦るほどに緊張が喉を押さえつけ、自分の声とは思えないよう

な、音程の悪い掠れた歌が耳の奥で鳴り続けた。それは最後まで続き、調子が上がることはなかった。

何に対しても、強迫観念が強すぎるのだと思う。「失敗しちゃいけない」「否定されたくない」という想いが脳裏にびっしりこびりついて、いくら頭を振ったって剥がれない。

どうしてそうなってしまうのか、私自身分からない。解決方法も分からない。だから人前では絶対に歌いたくない。私の輪郭は、ないないだらけの糸で編まれて形成されているのだ。「おーい、どした?」

彼ののんきな声で、ハッと我に返った。「な、とりあえず上がって」

彼が丸い目を細め、にっと笑った。その瞳に、どこか懐かしいものを感じた。けれどそれが何なのかは分からなかった。「……うん」

私は静かにスニーカーを脱ぎ、上がらせてもらった。歌えないと、正直に話そう。くるくる豊かに表情を変える彼の、まだ見ぬ落胆した顔がすぐに思い浮かび、なんだか胸が重たくなった。

畳が敷かれた六畳ほどの部屋に案内されると、自分と同じ高校の制服を着た男の子と女の子が、座卓を囲むようにして腰を下ろしていた。「お、ほんとに連れてきよった」

涼しげな目元をした男の子が私を見上げ、驚いたように呟いた。

009

彼らもクラスメイトではなかった。それにしても、まるで真夏に毛糸のセーターを着ている人を目にしたみたいな、さも不思議なものを見る表情でじっとこちらに視線を送るのはやめてもらいたい。否応無しに不安がこみ上げてくる。「おう、学校中探したわ。まぁまぁ、とりあえず座って座って」「自分家みたいに言うとるけど、こっちの彼のお宅やけんね」

大人っぽい顔立ちをした女の子がくすりと微笑み、隣の男の子を指差した。「は、はは」私はその一見和やかそうな雰囲気にうまく交ざりきれず、べったりとした作り笑いを顔面に貼りつけていた。私だけが突っ立ったまま彼女たちを見下ろし続けるのもきまりが悪く、そろそろと膝を曲げ、制服のスカートを織り込み小さく正座する。「ねぇ、もしかして四月に転入してきたっていう子?」

首をかしげながら、女の子が訊いてくる。長い黒髪がさらりと頬にこぼれると、彼女は白い指でそれをさりげなく耳にかけた。「え、あ、はい、」

圧倒的に、何を話していいのか分からない。居心地の悪さが喉をとらえ、それ以上の言葉は出てこなかった。「ああ! なるほどなあ。なんとなく潮野っぽくないもんな。で、名前は?」

彼に名前を尋ねられ、そういえば互いに名前すら名乗らないままここまで連行されてきたのか、と考える私をよそに、会話は次々と進んでいく。「千景、適当なことばっか言うな。というか、お前まさか名前も聞かんとここまで連れてきた

ん? 僕らの事情は話しとる?」「うん。ボーカルが抜けたってことは。あ、俺は瀬戸千景。ギターやっとる。千景って呼んでな」「お前のほうも名乗っとらんかったんか。なんや、急にバタバタさせてごめんな。僕は高橋玄弥です。ドラム叩いとる。何から話したらいいんかなぁ。とりあえず、ここは僕のばあちゃんの住まいでな。昔ささやかな商店やってたんよ。もう店は閉めとって、物置みたいになっとったスペースを片して、そこでバンド練習しよる」「私は村瀬うみ。ベース担当。そうやね、みんなで音合わせるときはできる限りボリューム抑えて演奏するんやけど、それでもやっぱり漏れてはしまうんよね。でも玄弥くん家や近隣のみなさんのご厚意で、ありがたいことに続けられとる。ライブ前になると防音完備のスタジオ借りて、練習したりもするよ」「そこやったら思い切り音出して演れるけん、本番前の仕上げで入ることが多いかな」

瀬戸くん、が懇切丁寧に補足してくれる。時計回りに行われていく怒涛の自己紹介に、私はすっかり呆気にとられ、まばたきをするだけでいっぱいいっぱいだった。引き結ばれたままの私の唇は、どうしていいのか分からずもぞもぞと動いている。いいや、きっと自分が名乗る番だと分かっているのだけど、例の如く緊張がぐんぐんせり上がってきて、唇をしびれさせているのだ。

ただ、名前を言うだけじゃないか。それにきちんと伝えなきゃ。私は脳内で同じ言葉を何度もなぞる。詰めていた息をそうっと吐き出し、そのまま大きく酸素を吸い込んだ。

010

「……み、水原、心音です。あの、名前、教えてくれてありがとう……でも、」

私は歌えない、と精一杯のせりふが続くはずだった。しかし最後のメンバーの登場により、流麗に遮られることになる。「すみません遅れましたああ!!」

その声と共にガシャン、と勢いよく引き戸が開いた。息を切らした小柄な女の子が飛び込んでくるのを、私は「でも」の口の形のまま見ていた。「おお、唯ちゃんも来たし、全員そろったな」

瀬戸くんがぐいんぐいん肩を回している。唯ちゃん、と呼ばれた彼女だけが制服のリボンがグリーン色だ。この高校は、学年ごとにリボンの色が異なるので、彼女だけが一学年下と分かる。「この子は坂口唯ちゃん。二年生の後輩。めちゃめちゃキーボードがうまい」「えっ! 千景先輩、新しいボーカルの方、もう見つかったんですか?!」

その後輩の女の子が、大きな瞳がこぼれ落ちそうなくらい目を見開き、声を輝かせる。「あ、私は、違……」「よっしゃ。とりあえずちょっと音出しながらやろうや!」「ちょっと、今日ミーティングって聞いとったから、ベース持ってきとらんよ」「ああ、そうか。俺は一応ギター持ってきとるけど、まあひとまず移動や移動」

瀬戸くんがパシーンと両手を叩くのを合図に、みんなぞろぞろと立ち上がりだした。発言のタイミングを逃し、ただおろおろすることしかできず、結局、私はまた笹舟と化し、ゆらゆらと流されるまま彼らについていくのだった。

高橋くんが話していたとおり、元々商店であったのだろうそのスペースには、マイクスタンドを中心に、後方にドラムセットが組まれ、周囲にはそれぞれの楽器のアンプが並んでいた。バンドスタジオと呼ぶにはいくつか足りないものもあるように思われるけど、音を合わせるにはじゅうぶんすぎる空間だった。

どうやら楽器を持ってきているのは瀬戸くんだけのようだ。ケースからエレキギターを取り出し、こなれた手つきでアンプに繋ぐ。ノブを繊細に回しながら音量を調整し、適当なコードを鳴らしてチューニングをしている。「なあ、前にカバーした曲あるやろ。ほらジブリの」

チューニングを終えた瀬戸くんがみんなに語りかける。ジブリの曲を高校生のバンドが演奏している風景にはこれまで出会ったことがなくて、へぇと意外に思っていると、「ああ、魔女宅のな」

ドラムイスに腰掛けた高橋くんがそう言った。「えっ」と蚊の鳴くような声がした。私の声だった。「水原さん。『やさしさに包まれたなら』、俺らも一回演っとるんよ。いい曲よなあ」「う、うん」「今日はアコギ家に置いとるけんエレキの音色になってしまうけど、一緒に歌ってみらん?」

まるで、後ろの席の子にプリントを回すくらいの軽い調子で、「はい」と瀬戸くんが私にマイクを差し出した。

011

汗ばむ手のひらをぎゅっと握り直す。私はそれを受け取れない。みんなの期待する視線が背中に刺さって痛い。私は口の中をからからにしながら、沈黙の底から懸命に言葉を引っ張り上げる。「ごめん、なさい……私、歌えない」

申し訳ない、という気持ちがじわっと胸を湿らせた。

私は、人前に出た途端歌えなくなる。改善のきざしはいまだ見えない。力になれず申し訳ない。でも欠陥品が迷惑をかけるのはさらに申し訳ない。私には、ひとりの歌が似合っている。「俺、昨日水原さんがこの歌弾き語りよったの聴いて、なんていうか、胸がぐあああなったんよ」「いや、私、声、出なくて……へ、下手で」「昨日えらい上手に歌いよったやん」「……ひとりなら、歌えるだけで……」「またまた」「謙遜、とかやないんよ、えっと」「うーん」

俯いたまま上目だけでこそこそ様子を窺う。けれど私の言葉不足のせいか、瀬戸くんは「はて?」といった面持ちで首をかしげるばかりだ。彼だけでなく、みんな同じような表情をしている。おそらくこの調子では、時間の砂だけがさらさらと落ちていくだけだろう。

私は、怖い顔をした犬の頭に触れるみたいに、おそるおそる、手を伸ばした。瀬戸くんの手から黙ってマイクを受け取ると、「おお」という声がぱらぱらと聞こえてくる。

論より証拠。できないことを証明する言葉にしてはかっこよすぎるけれど、ともかくこれが一番手っ取り早く全員を納得させられる手段だろう。「はは、ありがとう! じゃあカウントとるなあ!」

瀬戸くんが、打ち上げ花火みたいにぱっと笑顔を弾けさせた。彼の大きな手のひらが弦をそっと包み込む。「ワン、トゥー、スリー、フォー」小さく声が刻まれる。『やさしさに包まれたなら』のイントロはギターからはじまる。瀬戸くんが音を奏でた瞬間、柔らかい風がふわっと前髪を揺らした。

いや、音が漏れないように閉め切った空間にいるのだから、風は吹かない。気がしただけだ。けれどそう感じさせられるくらい、彼のエレキギターから鳴る音は限りなくやさしく、私の心のかたい部分を直接撫でて、震えさせた。

棒立ちで聴き入っていると、ドラムの音が入ってきてハッとする。この歌のイントロは四小節。次の瞬間から歌が入る。

弾かれたように顔を上げた時、視界の左端に、瀬戸くんが映った。

彼がこちらを見ているのが分かった。磁石のN極とS極みたいに、視線が勝手に吸い寄せられる。すると彼が、柔らかそうな目元をふんわり細め、微笑んだ。

あ、とまた胸に懐かしいものが浮かぶのを感じながら、私は、短くブレスをした。

あ、とふたたび思ったのは、歌がはじまって四小節が過ぎた頃だった。

012

私はいとも素直に、なんの滞りもなく、声を、歌を、紡いでいた。

幼い頃から口ずさんできた曲だから、歌詞は口が覚えている。けれど、そういう話じゃない。音楽のテストの時のような、喉を根こそぎ奪われたみたいな感触もなければ、人と対面した時の体の芯がぎゅっと絞られるような感覚もなかった。

どうして、歌えているのだろう。「いいね……」

アウトロが終わり、一瞬の静けさのあと、誰かがぽつりと言った。淡く色づく形のいい唇をきゅっと引き上げて笑う、村瀬さんの声だった。「な、めちゃめちゃいいやろ」

瀬戸くんが白い歯をのぞかせ、にぃっと笑う。私はその笑顔をまじまじと見た。彼の笑みが、私の記憶の隅を突っついているのはたしかなのだけど、それが何なのか、やはりうまく思い出せない。

とくとくとくとく、心臓は遅れて、騒ぎ出す。フルコーラスを歌い終え、今頃になって鼓動はどんどん早打ちをはじめていた。

私、歌えたんだ……!「わ……、す、すごい」

素直な感嘆がつるりとこぼれ出た。興奮していた。お誕生日じゃないのにプレゼントをもらった時のような、驚きと、喜びと、信じられなさが、私の心の中でがっしり手を結び合っていた。

もしかしたら、ここにあるのかもしれない。

自らのコンプレックスを打破するヒントが。

根拠はなかった。だけど「きっとそうだろう」と、私は天啓を受け取ったみたいに、直感的に思った。

歌だけじゃない。長年、自分じゃどうすることもできなかった、人との向き合い方における切実すぎる悩みを解決する糸口が見つかるかもしれない。

ずっと、このままでいいと思っていた。仕方ないと思っていた。けれどほんとうは、そう言い聞かせていただけだったのかもしれない。

変わりたい、という素直な気持ちが、体の底からふつふつと湧いてきたのだ。「一緒に歌ってくれん?」

と、もう一度瀬戸くんに問われる。私はすごくはっきりとした声で、言った。「はい……っ」

私は、深さの知れない海に目を瞑って飛び込むみたいに、彼らの輪の中へダイブしたのだ。「わああ嬉しいです! 唯も今日キーボード持って来ればよかったなあ」「ありがとう。千景くんが必死になって連れてきたくなるのも納得した。いい声。鈴の音みたい。澄んでてよく響くというか。歌ってもらえるん、私もほんとうに嬉しいな」「な! 夏のライブが楽しみや」

013

瀬戸くんがジャカジャカと適当なコードを鳴らしながら、歌うような口ぶりで言った。

夏のライブ。「水原さん、千景の説明不足でごめんな。僕ら、八月のライブに出演できることになったんよ。潮野まつりのオープニングアクトとして」

潮野まつり。「はぇ」ととぼけた声が口をついて出た。潮野まつりは、数年前から潮野町が主催している地域に根付いた野外イベントだ。広い世代に向けて音楽・映画・小説など様々なカルチャーを取り扱うおまつりで、ライブステージには潮野にゆかりのあるミュージシャンも多く出演する。私もここに引っ越してくる以前、何度か訪れたことがある。「ラ、ライブやるなんて、」

聞いてない、と訴えようとして、言葉が喉奥に引っ込んだ。違う。聞いてないのではない。聞かなかった0 0 0 0 0 0 のだ。そもそも、空き店舗を自らスタジオに作り替えるような人たちが、目標なしに活動しているわけないではないか。

瀬戸くん以外のみんなは、にこにこした笑みでこちらを見つめてくる。しかしそれは純粋な晴々しさだけでなく、「どうかやってくれるよね」というどこか切羽詰まった思いが、瞳に滲んでいる気がした。

瀬戸くんにいたっては、まるで当たり前のように、言った。「じゃ、今日から水原さんがayame. のボーカルや。よろしく」

あやめ。

彼の口からこぼれたその名前は、不思議なあたたかみを含んでいた。「えっと、うん……よ、よろしくお願い、します……っ」

戸惑いながらも、私がぺこりと頭を下げると、その場に張りつめていた緊張の糸が一気にほどけた気がした。「よっしゃ! なあ村瀬たちも楽器持ってきてやろうや」「えぇ、今から? まあ、やりたい気持ちは同じなんやけど、今日軽くミーティングするだけって聞いてたし、私これからバイト入れちゃってる」「唯も、同じくですう」「えー」「そりゃそうやろ。千景も無理ばっか言うな。水原さんほんとにありがとうな。今日はこの辺で解散になるけん、詳しい話はまた明日にでも」「先輩! よろしくお願いします」

唯ちゃんが、生まれながらの無垢さで私に両手を差し出す。「よ、よろしくっ……」

どきどきしながらそっと手を伸ばすと、彼女のふわふわした手のひらにぎゅうっと包まれた。

なんだろう、ものすごく、照れる……。「心音ちゃん、連絡先教えてくれる? 私たちのグループチャットに入ってほしいな」

心音ちゃん、という響きに心臓が大きくジャンプした。ふふふ、と村瀬さんが微笑む。彼女は仕草や口調からか、話すとより大人びて見える。

014

私たちは連絡先を交換し、それぞれ別れた。仮スタジオ(彼らと同じくそう呼ぶことにする)を出ると、空はすっかり暮れていて、雲を朱色に光らせていた。交差点の分かれ道まで、瀬戸くんと並んで歩く。「これは俺の持論なんやけど」

パステルカラーの青とオレンジが、絵画みたいに溶け合う空を見上げながら、彼が言った。「帰り道に白い月が見えると、いい日」

瀬戸くんは、制服の白シャツから伸びるうっすら焼けた腕を空にかざす。彼が指差す先には、淡くて白い月が浮かんでいた。「……な、なんで?」

思わず食い入るように訊き返していた。私が月、と言われてイメージするのは、夜の中、金色に浮かんでいる姿だ。だから、真昼や夕暮れに浮かぶ白い月って、光を失ったように見えて、どことなく切ない気持ちになる。「月ってつねに輝き続けとるんよ。けど、昼間は、太陽が空を照らす光に埋もれてしまうことも多い。でもな、月の位置とか天気によって、今日みたいに空の明るさを追い越して浮かび上がってくるんが、白い月。そう思うと、なんか白い月に愛着湧かん? 空の明るさに負けじと懸命に輝いとるっていうか」

瀬戸くんがにししと歯をのぞかせながら空を見上げている。私はその横顔をちらりと盗み見た。月がそんな意志を持っているはずないし、なんだか変わったことを考える人だなと、少し不意を突かれたような気になった。突かれた胸の隅が、小さく音を立てる。

「て、天体、とか、詳しいん……?」「いいや、正直今のは受け売りなんやけど。でも、白い月が好きなんは、ほんとう」「そう、なんや」「おー。じゃ、また明日な」

瀬戸くんは、ずっしりと重たそうな腕を大きく一度振り上げると、颯爽と交差点を渡っていった。「また、明日……」

遠く、小さくなっていく彼の背中に、私はひとり呟いた。

ここから私と彼の、短い季節の永遠を綴る、終わりとはじまりの物語の幕が開くのだ。──